What’s Aizu & Sado

会津と佐渡について

会津と佐渡には、魅力があふれています。山と海に囲まれた自然の豊かさ、文化歴史の奥深さ、心にいつまでも残る絶景たち、ゆっくりと味わいたい美食。ここでしか出会えないラグジュアリーで特別な旅を、会津と佐渡で。

佐渡の成り立ち

約300万年前に日本海の海底の一部が持ち上がり、海上に大小二つの島となって現れ佐渡となりました。

佐渡に人が暮らし始めたのは約8,000年前頃と考えられています。約2,000年前に山から流れ出す土砂が島の間の海を埋め立て、現在の形となりました。

724年に佐渡は「遠流(おんる)」の地として定められました。これは1434年まで700年近く続き、この間に順徳上皇や日蓮上人、世阿弥などが都から流されました。8世紀には国分寺が置かれ、一つの国として認められていました。

金銀の島

佐渡では古くから金や銀の採取が行われ、江戸時代には徳川幕府の直轄地とされました。金銀山開発のために日本各地から様々な人が訪れ、17世紀前半には相川の町に約5万人もの人が住んでいました。金銀山の開発は1989年の相川金銀山の休山まで、形態を変えながら続きました。

文化の島

佐渡は金銀山開発に伴い各地から多くの人が集まり、様々な影響を受けました。特に能の普及には佐渡代官大久保長安が大きく影響を与えたといわれています。また、無名異焼や鋳金など金銀山開発に関わる文化も広がり、今では佐渡を代表する美術工芸となっています。

  会津の成り立ち

会津若松市での人の営みは、猪苗代湖北西畔で使用された石器が発見されたおよそ3万2千年前から始まり、以降古墳など様々な時代の遺構が発見されています。記録上では712年に編纂された「古事記」に「相津」の地名で記されているのが見られます。 

以降、厳しくも豊かな自然環境とその中で育まれた風土の中で、各時代に築いてきた数々の建造物や様々な工芸技術、多様な伝統芸能や食文化などが発展・継承されてきました。

文化・交通の要衝

会津若松市は日本海側と東北、関東地方を結ぶ交通の要衝であり、肥沃な会津盆地の中央に位置していることから、その時々の為政者から重要視され、伊達政宗や蒲生氏郷など有力な領主や藩主が入部してきた土地です。

歴史のまち 会津若松

日本近代化の大きな節目であった戊辰戦争では、徳川家への忠誠を尽くす藩是を貫き、大きな役割を果たしました。その後、先人たちのたゆまぬ尽力により、福島県初の市制を施行するなど復興を重ね、数度の市町村合併を経て、現在の姿となりました。

二市をつなぐ共通点

佐渡の金は、平安時代末期の書物「今昔物語集」にも書かれていて、古くから知られてました。佐渡は、1589年に上杉景勝が本間氏を滅ぼし、上杉領になりました。景勝は1598年から1601年にかけて120万石の大名として若松城を居城にし、現在の福島県の会津・中通りから宮城県の白石付近、山形県の庄内、佐渡と広大な領地を治めていました。この期間、上杉領の経済を支えたのは、佐渡の金でした。

江戸時代には、佐渡は幕府の直轄領となり、幕府の経済を支えました。佐渡から江戸へ金を運ぶルートは、三つの街道が使われていました。主に使われていたのは北国街道でしたが、会津の地を通って佐渡の金が江戸に運ばれたこともあったようです。

未来に向かって

平成の時代になり、両市の小学校が修学旅行をきっかけに交流をはじめるようになりました。その後、平成27年からは、共同で首都圏や関西方面、さらには台湾からの誘客促進など、国内外で様々な観光誘客に取り組んできました。

そして、両市での更なる連携協力を進めていくために、令和2年10月に連携協力に関する協定を締結、さらに令和4年3月に官民の関係団体で構成する「会津佐渡広域観光推進協議会」を設立しました。

このサイトでは、これからも、佐渡金山で結ばれた両市が連携して、歴史や自然、絶景や食など、両市の様々な観光コンテンツを組み合わせ、魅力を発信することで、来訪される皆さまにご満足いただけるサービスを提供してまいります。